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2004年6月20日 (日曜日)

キルター

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世田谷美術館の区民ギャラリーにて今日まで開催されているQUILT KEIKO展に、昨日、足を運んできました。スタジオでキルトを教えておられる、某氏の奥方と、その生徒さんたちによる作品展でした。色合いも、デザインも様々でした。黒のあしらわれたもの、白一色のものに心ひかれました。カントリー調のベッドに掛けられたカバーなどでお馴染みかとは思います。布と、針と、糸を使った刺し縫いと、パッチワークと、刺繍とで出来上がっている、薄手の布団といった感じでしょうか。

キルト(Quilt)は、辞書を引いてみると、名詞としては、掛けぶとん[綿毛、羽毛などを心(しん)にして刺し縫いした);寝床の上掛け。動詞には、心を入れて刺し縫いする[模様縫いする]、よせ集めで作りあげる[文学作品などを]等の意味がありました。未見の映画に『キルトに綴る愛』(How to Make an America Quilt)なんて邦題がついたことと関係ありそうです。キルトをする人のことをキルターと呼ぶそうです。ミシンで縫った方が早いのにと思ってしまう私は、キルターになる可能性はなさそうです。

画像は、美術館の中にある「ルソー」で飲んだメロンソーダです。サクランボウは付いていませんが、色には満足しました。

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コメント

こんばんは、melasさん。
世田谷美術館はもう何年も行ってません。
キルト展を見られたんですね。
アーミッシュのキルトを見たことがあるんですが、
その出来上がりが哲学的な美しさに胸を打たれたことがあります。その一枚のキルトを作るのに何人かの共同作業でつくるときいて、更に驚きました。まさに芸術品です。「ルソー」というのは、アンリ・ルソーから名前を取られたのでしょうか? 「眠れるジプシー」という絵が僕は好きです。それから、メロンソーダがお好きなんですね。それもキッチュな毒々しいあの緑色の。最近、あんなメロンソーダ、少なくなりましたね。それから、花の写真、少し見せていただきました。一眼レフで撮られてるんですか? 写真を撮るのは僕も好きです。今は持ってません。質屋に入れてしまいました。

投稿: face | 2004年6月22日 (火曜日) 午後 08時07分

faceさん、こんばんは。
世田谷美術館は、私の場合、知人の作品を見るためだけに行くところなので、アンリ・ルソーの絵が飾られた喫茶室でしたが、ソーダ水を撮る方に気を取られて、タイトルも覚えていません。美術音痴ってやつですか。

でも、アーミッシュ・キルトは見ましたよ。伝統的なパターンが使われていました。アーミッシュというのは、キリスト教の一宗派で、宗教上のルールを今も守って暮らしているそうですね。たとえば、電気やガスを使わない、電話をひかない、車を運転しない、写真を撮ったり撮られたりしない等々。パソコンなんて、もってのほかでしょう。そういう暮らしをしながらキルトを作るわけですから、なにかこう、伝わってくるものがあるのかもしれません。

え~、花の接写がしたくて手に入れた一眼レフでした。そろそろ花には食傷気味です。というか、花というのはそこにあるだけで綺麗ですから、性能のいいカメラで撮ればたいてい美しく見えます。それよりも、どうってことのない風景を素敵に切りとれればいいなと、最近では思います。

投稿: melas | 2004年6月22日 (火曜日) 午後 11時52分

アーミッシュで思い出すのが映画。
『刑事ジョン・ブックの目撃者』で
アーミッシュの素朴な静かな暮らしが
美しく描かれていましたね。
それから、北海道のアリスファームの藤門弘さんの家具や
宇土巻子さんの田舎暮らしを思い出します。

それから、どうってことのない風景も楽しみにしてます。

池袋はお馴染みの土地ですか。
僕にとってもお馴染みの駅です。
大塚はもっと馴染みがあるかな?
世田谷とか目黒とか
最近はあっちはあまり行く機会がありません。
学生時代は町田に住んでいました。

京都ご出身なんですね。
自分は秋田です。でもちょっと市内ではありません。
八郎潟のほとりといったとこでしょうか。
高校時代、千秋公園には思い出があります。
その時代のことも書こうかなと思っています。
でもあんまり、昔に浸るのも考え物ですよね。
な〜んちゃって。

朝、自転車に乗って仕事へ向かう途中、
ドン・シンク・トゥワイス(ボブ・ディランの歌)をヲークマンで聞きながら走っていて、なぜか涙がでてきたんですよ。
俺って変わってるなって。
それだから、世間から、いろんなものからはみだしてしまうんだって。でもそうゆう自分が自分なんだなって、最近そんな自分がだんだん受け入れられるようになってきたんですね。それまではもう、だめ、全然自分に自信がもてなかった。そして、自分がどうしても好きになれなかった。
な〜んちゃって。

ちょっと、愚痴ってしまいました。
ごめんなさい。

投稿: face | 2004年6月25日 (金曜日) 午前 12時46分

アーミッシュ・キルトについては、
キルターである奥様をお持ちの
うまやど氏に説明をしていただきながら
作品を見ました。刑事ジョン・ブックの話も
伺いました。そうでなければ、キルトについては
無知な私でしたので、補足します。

池袋はタンゴダンスのために通っています。
ダンスと関連してお馴染みになった場所です。

京都には実家があります。そして、「ほんやら洞」
(「な~んちゃって通信」で見かけて、懐かしく
思い出しました)の前は何度も通ったことがあります。
学校のそばでしたから。秋田は、同じ西洋長屋の女性
カメラマンの故郷です。私の非公開HPでご一緒の男性に、
岩手県出身の方がいます。筆名にしている昔の名前は、
山形県によくある姓らしいです。鶴岡へは一度だけ
行きました。

それから、思い出っておっしゃってますけれど、今も
覚えている思い出は過去でなく現在だと、詩人の長田弘氏
は書いておられますよ。忘れてしまった思い出が大部分な
わけですから。いいじゃありませんか、思う存分浸って。

そうですね、自分のすべてを、誇れるところも、恥ずかしい
ところも好きになったのは、割合最近かもしれません。
そういう意味でいい年ごろにさしかかりました。


投稿: melas | 2004年6月25日 (金曜日) 午後 10時39分

広島県在住の友人、きんぎょさんからの手紙に
引用されていた詩を、ここに転載してみます。
「思い出」でなく「記憶」という言葉でした。
         *
「記憶のつくり方」 あとがきより

記憶は過去のものではない。
それは、すでに過ぎ去ったもののことでなく、
むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。
とどまるのが記憶であり、
じぶんのうちに確かにとどまって、
じぶんの現在の土壌となってきたものは、記憶だ。

記憶という土の中に種子を播いて
季節のなかで手をかけてそだてることができなければ
ことばはなかなか実らない。
じぶんの記憶をよく耕すこと。
その記憶の庭にそだってゆくものが、
人生とよばれるものだと思う。

長田弘
         *

投稿: melas | 2004年6月26日 (土曜日) 午前 07時35分

こんばんは、長田弘さんですか。
いい言葉ですね。
そう言っていただくと、
すごく優しいいい気分になれます。

投稿: face | 2004年6月26日 (土曜日) 午後 07時03分

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